(タケイセキアン)
肥後守・二位法印・爾云(ジウン)・妙云(ミョウウン)
生没年…不詳
美濃・斎藤氏の臣、もとは信州の人で武田氏に追われて美濃に逃れて道三に拾われる。斎藤道三、義龍、
龍興の三代に仕える。主家滅亡後は信長に仕え、織田家の右筆・奉行として活躍している。宣教師ルイス・
フロイスの書翰中で夕庵は「信長の書記」とあり、右筆として目立っていたことが伺える。夕庵の奉行として
の功績は枚挙に暇がない。信長の上洛後数年間は洛中並びに畿内の政務に携わり、公家との交流を深めて
いる。山科時継などは、勅旨として岐阜に赴くたびに夕庵との繋ぎを密にしている。夕庵の政務は各種奉行の他、側近と
しての役に、他大名家との外交もあった。甲斐の虎・武田信玄存命の折は武田家との外交にあたり、その後は
毛利家との外交を主にし、特に両川こと小早川隆景、吉川元春と繋ぎをとっている。
夕庵は戦場で槍や刀を振るう武将ではないが、織田家中での地位は思いの外高い。一五七五(天正三)年七月、宿老達
に混じって官位を受け「二位法印」とされた。同年十一月には信長が公家・寺社に所領を宛がった際にその実務を
担当したのが、京都所司代・村井長門守貞勝、山城及び大和守護・塙直政、堺代官・松井友閑に夕庵となっていた。また、
天正六年元旦に信長が茶会を催し、十二人の功臣達に茶を振舞った際にも、夕庵の席次は諸将を押し退けて一番で
あった。天正九年の御馬揃にはすでに七十歳を超える老体ながら坊主衆として参加。山姥の扮装で馬に乗り、危い感じ
だったといわれる。本能寺の変後はほとんど歴史の表舞台に姿を現す事はなく、わずかに天正十三年にその生存を確認
できるが、それ以降の記録はなく、没年不詳である。