織田 信忠





信長の嫡男であり後継者。元服時、菅九郎信重と名乗る。

元亀三年(1572)初陣、北近江浅井攻め。その後、東濃・遠江・伊勢を転戦。
負け戦も続くが徐々に軍功をたてていく。天正三年(1575)信長より家督を譲られ、
尾張・美濃両国を支配。天正五年(1577)松永弾正久秀討伐の総大将として信貴山城を攻め、
これを落とす。その功績により従三位左中将に叙任。

天正十年(1582)武田攻めにも参陣、飯田城・高遠城などを攻め落とす。
勝頼を天目山に滅ぼし、恵林寺では快川を焼殺。本能寺の変では妙覚寺に寄宿。
襲撃を聞きつけ救援に向かおうとするが既に本能寺が焼け落ちたことを村井貞勝から聞き断念。
二条御所に立籠もる。誠仁親王等を脱出させた後、明智勢の猛攻をうけ、鎌田新介の介錯で自刃。
信忠には有能・無能の賛否両論があるが、その年齢と軍功を照らし合わせても有能な
武将であったと見るべきではなかろうか。父が偉大すぎるが故に霞んでしまう面もあるが、
信長はことさら別格。他の諸大名・武将になんら劣るものではなかろう。
本能寺の変に際し、自らの脱出を試みず、二条御所に立籠ったのは、なんとも惜しい限りである 
逆賊に背を向けることを惜しんだのか、自らの命運を天に任せたのか。