織田 信長

(オダ ノブナガ)
天文三(1534)年〜天正十(1582)年六月二日
吉法師 三郎 上総介 尾張守 右大臣



織田信秀の次男にて嫡子。 兄・信広は長男ながら妾腹のため、生まれながらにして
信長を後継ぎと決めた父・信秀の方針によって、幼少より家族と離され僅か2歳で
那古屋城城主となる。 傅役・平手秀政らの諫言も何のその、後の織田家の中核となる
丹羽長秀、前田利家、池田恒興らを引き連れて遠乗り・川遊び・相撲三昧。 およそ身分の
ある者の子息にあるまじきそれらの奇行に、特異ないでたちが重なり、領内は勿論、近隣諸国
にも「うつけもの」として名を馳せていた。 1546年に元服。 翌1547年には隣国・美濃の斎藤道三の
娘・帰蝶を妻に迎える。 また、この年から約2年間、松平竹千代(徳川家康)が尾張で人質生活を
送っており、信長が竹千代を可愛がっていたとされるが、「水練だ」と言っては川へ突き落とし、
「おやつをやろう」と言っては渋柿を食べさせる等、単にからかって遊んでいただけのような気もする。
しかし、この時期の二人の出会いがあったればこそ、後1562年から20年間に渡る織田・徳川の
同盟が存続したのであろう。 1549年、父・信秀の死後、家督を継ぐと尾張の統一に乗りだすが、
実弟・信行を推す家臣達の謀反等を始め、「うつけもの」の悪評が仇となり、結果、領内平定に
10年を要する事となる。 しかし1560年5月19日、この「うつけもの」は自らの評価を一変させる
どころか、歴史に燦然と名を残す偉業を成し遂げた。 上洛途上、尾張侵攻を開始した駿河・遠江・
三河の三国の太守・今川義元を桶狭間で打ち破るのである。1567年には美濃の斎藤竜興を倒して、
美濃を平定。 その本城をこの稲葉山へ移すと共にこの地を「岐阜」と改名、天下統一への野望を抱き始める。
またこの年、実妹・お市を近江・浅井長政の許へと嫁がせ浅井家と同盟している。
さらに、当時、越前・朝倉義景の許に寄宿していた足利義昭から上洛の後援を依頼されると、
チャンス到来とばかりに義昭を岐阜城下へ呼び寄せ、1568年9月、上洛を果たし、義昭を室町十五代
将軍に就ける。 しかし、信長の傀儡であることに憤慨した義昭は、将軍の名を最大限利用し諸大名に
密書を送り、本願寺・朝倉を中心とした信長包囲網を形成する。 1570年4月、朝倉義景が上洛要請に
応じないという大義名分の下、越前侵攻を開始。手筒山城、金ヶ崎城と順調に陥落せしめるが、
後方で義弟・浅井長政が同盟を破棄し挙兵。 挟撃される形となった信長は家臣そっちのけで一気に
京都へ遁走するハメとなる。しかし、同年6月には朝倉・浅井連合軍に対して復讐戦を敢行し、
辛勝し名誉を回復したものの、両軍を滅亡させることは出来なかった。 1572年12月、甲斐の英雄、
武田信玄が上洛を開始、四面楚歌となり窮地に立たされるも、信玄の病没によって救われた形と
なった信長は、1573年7月には義昭を京から追放、翌8月には義昭を支えてきた朝倉・浅井を滅ぼして、
義昭との抗争に終止符を打つ。 1576年には安土城へと本城を移し、天下統一へ向けて磐石の体制を
取りつつあったが、その後も本願寺との抗争は続く。 1580年、正親町天皇の勅旨により本願寺との講和が
成り、京畿一帯を制して、周辺への侵攻を進める。1582年3月、天目山にて武田勝頼を滅ぼし、安土に
凱旋したのもつかの間、同6月、羽柴秀吉が進めていた中国・毛利氏攻撃に合流すべく、京都・本能寺に
逗留中、明智光秀の急襲に遭い死亡する。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を受け 滅せぬ者のあるべきか」
自らが好んだ敦盛の唄通り、49歳でその苛烈な生涯に幕を閉じた。