(オダ ノブカネ)
天文十二(1543)年〜慶長十九(1614)年七月十七日
三十郎・上野介・民部大輔・左中将・犬老斎
永禄11年(1568)2月、信長の北伊勢制圧後、長野藤定の娘を娶り、長野の名跡を継ぐ。
長野家の当主具藤は追い出され、実父北畠具教を頼って南伊勢へ移ったという。
そして信包は、工藤・雲林院・分部・細野・中尾・川北ら北伊勢の豪族たちを麾下に置いた
同12年8月、大河内城攻めに従軍。10月の講和後、上野城に置かれた。
『甫庵』には、5万石とある、その後、安濃津城に移るという。
元亀2年(1571)2月、津三郷等の課役を免除した判物があるから、
この頃安濃津を領有していたことは確かである。
浅井攻めに参加。信長の妹お市と三人の女子を、小谷より受け取るという。
その後、長島攻め、越前一向一揆討伐戦に参陣。越前攻めの時は、信雄と組んで、
一揆の残党6百余を討ち取ったという。天正5年(1577)2月2日、逆心のかどで
細野藤敦を誘殺しようとしたが、事前に察知した藤敦が出奔したという事件もあった。
同8年には、雲林院出羽守・兵部少輔父子を追放している。このように信包は、国衆の粛清を通じて、
次第に北伊勢に強力な支配権力を植え付けて行った。
その前後の戦歴を追うと、同5年2月雑賀攻め、6年4月大坂攻め、5月播磨出陣、11月有岡攻め、
いずれも織田家督として連結衆をよ率いる信忠に従っている。
同9年2月28日の馬揃えでは、信忠・信雄に続く連技衆の第三番目とLて、馬乗10騎を従えて行進。
ここの記事ばかりでなく、信長公記に連枝衆の名か連なろ時、信包は常に信雄の次、
信孝の前に記されている。達杖衆の中で三番日の地位を保っていたと考えてよかろう。
同年9月、伊賀攻めに参加。この時は、総大将信雄の指揮に従った。山田郡の征服に努め、
平定後、同郡を与えられる。同10年元日「安土に出仕して信長に礼。
武田攻めには参加しなかったらしい。本能寺の変時は領国にいた様子だが、
動くことができなかったようである。その後、秀吉に属し、甥の信孝や柴田勝家と敵対。
信包は、北伊勢で信孝与党の滝川一益と戦って、峰城を攻略した。
賤ケ岳の戦い後の同11年6月、秀吉より伊勢鹿伏兎・稲生を、さらに翌12年6月、
木造・小森・小山戸・上野を加増された。同13年7月11日、侍従に任じられ、
「津侍従」と称す。14年3月22日、少将、16年には従三位左近衛中将に任官する。
同13年佐々攻めに従軍、18年小田原陣の時は信雄の下で韮山攻めに参加。
文禄元年(1592)、名護屋に在陣。だが、秀吉の機嫌を損ね同3年9月、伊勢の領知を没収され、
近江2万石に移封された。ただちに剃髪して老犬斎と号す。その後は秀吉のお咄衆の一人。
慶長3年(1598)、丹波氷上郡柏原城3万6千石。『慶長4年諸候分限帳』では4万石とある。
関ケ原の戦いの時は西軍に与し、田辺城攻撃に参加したが、戦後領知を全うし、
大坂で秀頼に近任した。慶長19年7月17日没。