柴田 勝家
(シバタカツイエ)
権六 修理亮
生年:「1522(大永2)〜1583(天正11)年」
法名:摧鬼防殿台岳還道大居士
 
父母不明だが斯波氏の一族といわれる。
始め信長の弟、信行に仕え、その家督相続のため林佐渡守信勝と謀り信長にクーデターを起こすが、
1556(弘治元)年、稲生の戦いで敗北、降伏して翌年の信行の二度目のクーデターを密告。
信行暗殺の後、信長に仕える。その後は常に織田軍の先鋒にあって桶狭間・姉川等
数々の合戦で武功を挙げ、「鬼柴田」や「かかれ柴田」と恐れられる。
浅井長政の謀叛によってそれと結んだ六角承禎から近江長光寺城を守った戦いでは、
籠城用の水瓶を叩き割って城に戻らない覚悟で出陣。六角勢を蹴散らし「瓶割り柴田」の異名をとる。
などの逸話も多くある。
1575(天正3)年、越前平定がなりその支配を信長に命じられると北ノ庄を居城として、
前田利家・不破光治・佐々成政らを与力として加賀一向一揆に対抗し1580(天正8)年これを鎮圧。
その後、能登・越中にも侵攻し越後の上杉景勝と対立。
1582(天正10)年、富山城を奪還し魚津城を攻略するが信長横死の悲報が届き退陣。
明智光秀討伐軍を編成中に山崎・天王山の戦いを知る。
6月27日の清洲会議では信長の三男(信正を数えれば四男)、織田(神戸)三七郎信孝を立てるが、
光秀討伐の功で発言力を得た羽柴秀吉に主導権を奪われ失敗。
秀吉三法師を跡目として自らの傀儡とした。この時点で勝家秀吉の戦いは避けられないものとなった。
またこの会議で勝家は前秀吉領の近江長浜を含む三郡を入手し甥の勝豊を入れるがこの勝豊
勝家のもう一人の甥である佐久間玄蕃丞盛政を憎み秀吉に降る。
また、信長の妹のお市の方を娶り織田家との関係を更に深める。
1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いでは、先鋒の佐久間盛政が暴走し岐阜より急遽帰還した秀吉に、
前田利家の日和見もあって大敗。
居城の北ノ庄でお市の方とともに自害して果てる。享年62。
 
勝家辞世の句
「夏の夜の 夢路はかなき 後の名を
    雲井に上げよ 山ホトトギス」