織田信正とは1554(天文23)年生まれの信長の庶長子である。
母は赤母衣衆の一騎である塙直政の娘であり、そのため直政も、
備中守の官位や九州の名門である原田姓を与えられ、織田家中でもそれなりに重きを置かれていた。
しかし、天正四年(1576)四月に大坂攻めの軍として信正・直政は明智光秀・細川藤孝・
荒木村重らと出陣し三津城を攻めるが直政の失策により一揆勢に囲まれ、
激戦の後に直政は討死、信正ら諸将は撤退を余儀なくされることとなった。
これにより、塙(原田)氏の一族はことごとく追放され、信正も廃嫡された。
信正の廃嫡は腹違いの次弟である奇妙丸信忠を擁立しようとした生駒氏の計略であるとも、
その自分に似た器量・性質を嫌った信長がそれを遠ざけたとも噂されたが、
一族全てが追放されてしまった以上、この処分に異議を唱える者はなかった。
そして月日は流れ、織田家の家督は信長から岐阜城主となった信忠に譲られ、
その間特に働きのなかった信正は世間から忘れ去られていき、
信正自身ももはや自分が表舞台に立つことはないと考えていた。
しかし、明智光秀の謀叛の前に信長は本能寺とともに灰燼と化し、
信忠も同じく光秀の手にかかり果てた。全くの予期せぬ事態であった。
そしてそこに、信長の右筆であった武井夕庵が柴田勝家の使者を名乗って訪れ、
信長・信忠ともに亡き今、信正こそが新たな織田家の主になるに相応しいと説いた。
 俺が親父の天下布武を継ぐか…確かにそれもまた一興。
 天は廃された俺を未だ欲す…か。
信正は幼少の頃から自らが天下に君臨する強い野望を抱いており、
またそれ相応の器量もあると自負していた。
しかし、彼は一族の追放によって家臣に恵まれず、それ故に功の立て場もなかった。
が織田家随一の剛勇猛者である柴田勝家と、信長の影のブレインであった武井夕庵が
彼についた今、信正が覇王となるのは時間の問題にすら思われた。
そして清洲城では勝家が丹羽長秀と結んで、羽柴秀吉の三法師擁立による織田家乗っ取りを防ぎ、
遂に信正が織田家の当主の座に就くこととなったのであった。

―――安土城天守大広間――
織田家の家臣団が一堂に会していた。
(ちなみに勝家が光秀討伐軍として率いた前田利家・佐々成政らは北陸防備のため既に帰還している)
勝家ら四家老はもちろん、夕庵の計略により継子となり損ねた三介信雄と三七郎信孝、
関東から帰還したばかりの滝川一益や、光秀の誘いを真っ先に撥ね付けて織田家への忠義を貫いた
細川幽斎(藤孝)・忠興親子、さらには変後、安土城から信長の妻子を救出し自らの居城に保護した
蒲生氏郷など、そうそうたる面々が集まっていたが、その中に鬼武蔵こと森長可の姿はなかった…

九章 君臨