羽柴軍を瀬田で完膚無きまでに打ち破った信正は、すぐに姫路に押し寄せることはせず
秀吉とともに織田家から離反した領地の回復に向かった。
丹波、但馬、美作、因幡、伯耆の五カ国の平定には、二週間と要しなかった。
それというのも、もともと織田家の家臣だった者たちは先を競うように降伏し、
秀吉が新たに配置していた者たちは或いは逃亡し、或いは降伏し、
或いは秀吉のもとへ向かったためである。
中には抵抗を見せた城もあったが、衆寡敵せずそれらも一日も持たずに陥落した。
独立当時は七カ国もの大領であった羽柴領は、もはや播磨の南西部(姫路付近)と
宇喜多家の有する備前一国のみとなっていた。
それでも秀吉は、残った全兵力を姫路に集中させ籠城の構えを取り、
宇喜多も岡山城に籠もって徹底抗戦の様を見せた。

「生きて戻ったのはこんだけか…」
秀吉が嘆息を漏らす。
その周りには奇跡的に生還した黒田親子、福島、加藤、脇坂、竹中、そして
勝家に討たれた秀長の最期を伝えた藤堂高虎。
彼ら以外の者は残らず織田軍に討ち取られた。
また、姫路で留守居となっていた蜂須賀親子に石田・小西・大谷らも
おそらく最後になるであろう軍議に参加している。
「残った兵とて宇喜多殿の合力を得ても一万とおるまい。もはやわしらに勝ち目は無いわな。
信長様がいねぇ織田なんぞ敵じゃねぇと思っておったが、やはり強ぇわ」
カラカラと笑いながら秀吉が言った。

その翌日、秀吉の版図をほぼ全て吸収した信正は姫路を取り囲んだ。
その数およそ六万。対する城兵は八千足らず。
信正は率いる兵のうち二万を勝家に預けて岡山城を包囲させた。
勝家は盛政、勝政に先手を命じて様子見に攻めかからせてみたが、
予想していた反撃も大してない。
「叔父上、敵の士気思いのほか低く、我攻めにすれば一日と待たず落とせましょうぞ」
「よかろう、これより直ちに総攻めじゃ!!」
勝家は盛政の提言を入れ、自ら手に槍を取り、本当に一日とたたずに岡山を落城せしめた。
生け捕りにした将兵を問いただしたところ、城主の秀家・後見の忠家・その他主だった家臣らは
全てその妻子を連れて城を落ちていたとのことであった。
なるほど大将のいない城ほど脆い物は無いであろう。
秀吉への義理で戦う構えは見せたものの、勝ちの見込みが全く無いと悟り、
勝家の包囲を受ける前に脱出していたのである。
しかしこの数日後、国内の寺院に匿われている所を残らず捕縛され、信正の下へ送られた。
信正は笑いながら哀れむように、
「城を捨てるような腑抜けにこの乱世は重かろう。心安んじて浄土とやらへ逝け」
と言い一人残らず姫路からよく見える位置に磔刑に処した。
無論、籠城軍の戦意を削ぐためである。
「な、なんと言うことじゃ…信正は信長様など比べ物にならぬ鬼じゃ、魔王じゃ!
これでは光秀が何のために逝ったかわからぬではないか…」
「殿、落ち着かれよ」
狼狽する秀吉に正則が言う。
「敵の囲みは確かに厳重なれど、突き破れぬ程では御座らぬ。それがしと虎之助がおれば尚のこと。
あのような包囲など容易く破り、殿を落として見せましょうぞ」
「落ちる?今さら一体どこへ落ちると言うんじゃ」
「西に御座る。豊前の大友殿の下へ。長宗我部殿もお味方に御座れば」
三成が自信ありげに言う。
大友宗麟入道義鎮――竜造寺・島津とともに九州を三分割し、その中でも最大勢力を誇る西海の雄。
熱心な切支丹大名として有名でありドン・フランシスコの洗礼名を持つ。
彼と更に「土佐の出来人」の異名をとる長宗我部元親が秀吉の援助を承諾したという。

―――――秀吉はまだ終わらない。

十八章 西域