時は少し逆上る・・・
勝家らが越中魚津城から北ノ庄城に撤退を開始していた頃、北信濃から越後に侵攻した森長可の軍は、
あっさりと春日山城のすぐ近くまで辿り着き、完全に上杉を侮っていた。
「この鬼武蔵の前には越後の龍など恐るるに足らず!!この分だと勝家殿らが魚津より参る前に
 景勝公の首級がわしの眼前に置かれておるやも知れぬわ」
長可がそう豪語しているところに、突如として直江兼続の率いる上杉軍の伏兵が現れ、
森軍を急襲した。直江隊はつむじ風の如く森軍を散々に掻き乱し、潮の引くように引上げていった。
その去った後には、何か書かれた紙切れが大量にばら撒かれていた。それを拾って手に取った将兵らは
揃って愕然となった。長可自身、そのまま固まってしまったくらいである。その紙は、本能寺の変で光秀が
信長を討ち果たした事に加え、勝家らが既に撤退し森軍にもはや援軍はない事を告げていた。
「ば、馬鹿な、上様が御自害あそばされたじゃと!?これは我らを動揺させる上杉の罠じゃ、そうに違いない
 おのれ、小癪な真似を・・・」
長可は激昂した。そしてそのまま春日山城に攻めかかったが、さしもの鬼武蔵も上杉軍の巧みな戦術に、
成す術べなく翻弄され遂には長可自ら首級を挙げられることとなってしまったのであった―――


安土城で行われた織田信正の会合は無事終了した。三法師の擁立に失敗した秀吉であったが、
その顔には終始満面の笑みが浮かべられていた。

播磨国姫路城―
「まさか信正様が担ぎ出されるとは思いもよらなんだわ」
秀吉はそう言うと手に持った扇子で自分の額をピシャリと打った。
「私もまさか信正様とは…。しかし、あれは勝家様のご考案では御座いますまい。大方、何者かの入れ知恵で
 ありましょう。」
答えたのは秀吉の軍師、黒田官兵衛孝高である。官兵衛は竹中半兵衛重治と並んで「羽柴両兵衛」と
評されていたが、数年前に半兵衛が病没し、今は秀吉の軍略を一身に担っている。
「わしもそう思うわ、権六と親しくしておって織田の内情に精通しておる者か・・・」
「おそらくは総見院(信長)様の右筆であった武井夕庵殿かと。勝家様と夕庵殿と思われる二人が会談に
 及んでいたと川並衆からの報告があり申しました」
「ほう、彼奴は左様にキレものであったか。さすがは総見院様の右筆…と言った所か。
 小六、引き続き川並衆に権六の周囲を探るよう伝えおけ」
「ははっ、かしこまって御座る」
小六と呼ばれた男が平伏する。小六とは、情報収集を主な任務とする川並衆蜂須賀党の頭領である、
蜂須賀正勝の昔の名である。正勝は、秀吉が東海諸国を放浪していた頃からの付き合いで、
桶狭間合戦の諜報活動や、美濃墨俣における一夜城の築城、難攻不落とうたわれた稲葉山城の攻略等、
秀吉の数々の功績を陰で支えてきた男である。
更に秀吉は矢継ぎ早に指示を出していく。
「佐吉(石田三成)と紀ノ介(小西行長)は用意できるだけの兵糧と鉄砲・弾薬を揃えよ。官兵衛は勝家側の
 者達を可能な限り調略いたせ。寝返らずとも動かぬようになればそれでよい」
「心得まして御座います」
命じられた者達は、自らの使命をまっとうすべく、足早に退出していくのであった。


織田信正は安土城で勝家からの報告を受けていた。
「そうか、秀吉がとうとう戦支度を始めおったか…。奴のことよ、戦を始める前に必ずこちらを内側から
 切り崩してくるはずじゃ。当家の全武将に伝えよ、秀吉に乗った者には、われが自ら破滅を与えよう…とな」
信正は信長を彷彿とさせるような第六天魔王の凄みを見せて言った。

十章 謀叛