十六章 狂犬
中央で信正と秀吉が一大決戦に臨んでいる頃、
前田利家・佐々成政らの守る北陸でも大きな動きがあった。
「な、なぜじゃ!奴ら何故に退きおるのじゃ!!」
「解らぬ・・だが、上杉が退くのであれば越中に引き込む策はもはや使えぬ・・・。
無念だが長可の仇は討てまい」
「なんじゃと!?敵が退くならば追い討ちをかけるのが常道であろう!」
越中越後国境で対峙していた織田・上杉の両軍であるが、
突如上杉軍が撤退を始めたのである。
「それも一理あるが我らの命じられたのは守ることだ。
こちらから攻めてはならぬとの親父殿の言葉を忘れたか」
「戦は生き物じゃ、臨機応変に対応してこその将ではないのか!」
「親父殿が動くなと言われた…それが全てだ」
「ええぃ、もうよいわ!わしの手勢だけでも上杉の奴輩に目に物見せてくれる」
長可討死の一件から完全に頭に血の上っている成政は、
利家の制止も振り切って撤退していく上杉軍に追い討ちをかける。
が、さすがは天下に名高き上杉軍、理由定かならぬ退陣ではあるが
見事な引き際で、殿軍を任された斎藤朝信は成政の攻撃を全く受け付けない。
それはまるで、巨大な象の群れに狂犬が一匹で挑むようであった。
結局成政は大した戦果もなく引き上げるしかなくなり、
後、軍律違反として勝家に厳しく叱責された。

果たして、上杉軍は何ゆえ引き上げてしまったのか。
問題は奥羽・越後間で起こった。
森長可に呼応して叛乱を起こした新発田重家だったが、
長可が討死したことにより暫くはなりを潜めていた。
しかしその重家が、中央進出を狙い始めた伊達政宗・最上義光らの支援を受けて、
瞬く間に越後の東半分を平らげてしまい、
景勝の居城である春日山城に新発田・伊達・最上の連合軍が迫っていたのである。


一方、中央を挟んで西方でも動きがあった。
秀吉が出陣している間に、主命を受けた石田佐吉・小西弥九郎・大谷紀之介らが
四国の長宗我部氏・九州の大友氏を引き入れて、既に同盟関係にある毛利氏も含めて
西国に反織田を掲げる大同盟を形成していたのだ。
だがしかし、この同盟には大きな誤算があった。
参加大名家はおろか当の姫路にすら未だ伝わっていないが、
瀬田の戦いで秀吉は信正率いる織田軍に大敗、その上、中国一帯を支配する毛利は、
後にこれを期に信正に人質を差し出して降伏、同盟から離脱してしまうことになるのである。


そして肝心の中央では、信長を超える魔王信正の前に、秀吉の命運は風前の灯火となっていた。