本能寺で織田信長が討たれてもう五日目になる。この頃になると、畿内や、
中国・四国、甲信越の主だった諸大名にも信長横死の報せが届き始めている。
大体の大名は信長が中央で権力を握っているため、機内の出来事を報告するための
諜報員を安土や京都に忍ばせている。
その者たちが主君に報せを届けているのである。その中でもいち早く情報を手にし動き出したのが、
四国統一を目前に控え、土佐の出来人の異名を持つ、長宗我部元親であった。
元親は、信長が倒れたのを知ると、その信長を後ろ盾にしていた阿波、讃岐の、
三好康長・十河存保を一気に攻め立てた。
両者は織田家の援軍がないとわかると城を棄ててさっさと逃げ出した。
ゆえに元親は無損害で讃岐一国を手中に収めたわけである。
目標の四国統一のためにあとは伊予一国を残すのみとなったが、元親は、伊予へ軍を進めず、
船団を用意させ、摂津に上陸する気配を見せた。
これが何を意味するかは永禄・元亀年間を強かに生き延びた英傑達には一目瞭然だった。
それは織田に打撃を与える事、つまりは光秀を援助しようということなのである。
その理由には光秀の家老である斎藤利三の妹が元親の溺愛する嫡男、
信親に嫁いでいたということもあったが、それ以上に元親自身が光秀という男に魅せられていたのである。

元親が軍を讃岐に集中させている頃、信雄系織田家の援軍、滝川一益軍は
丹波に入り、先遣隊の岡田重孝はすでに光秀と合流を果たしていた。
長宗我部軍だけでなく、信雄系織田軍の援軍まで来たとあって、明智軍の士気は
天を衝く勢いとなっていた。ここで一度、増援部隊が集結した明智軍の、布陣状況を確認しておく。
明智軍は、援軍の到着にあわせ摂津に押し出し、信忠系織田軍を待ち受ける形で天王山に布陣していた。

第一陣…斎藤 利三     一〇〇〇
      滝川 一益     六五〇〇
第二陣…筒井 順慶(右翼) 二〇五〇
      岡田 重孝(中央) 二五〇〇
      細川 忠興(左翼) 二〇〇〇
第三陣…本多 忠勝     八〇〇〇
本陣…明智 光秀      九七〇〇
     伊賀・甲賀・雑賀衆 一〇五〇
徳川軍予備隊         二〇〇〇
―――――――――――――――――――――
なんと三四八〇〇まで軍勢は膨れ上がっていた。
もちろんそれは織田信忠軍や羽柴秀吉隊の耳にも届いており、織田一門の三介信雄が寝返ったという
事実に諸将は士気が低下し、信忠や秀吉ら主将級の武将達も、陣形の組み直しや、元親軍に対する
抑えの兵を割くなどの再軍備に追われ、出陣を予定日から二日も延期する事になってしまっていた。
予定では、昨日姫路から出陣し、今日・明日には光秀と激突するはずだったのだが、
信雄や元親の行動は、軍略においてはほぼ当代随一である黒田官兵衛ですら予想外のことであり、
大幅な予定変更を必要とされた。第三陣に配置する予定だった蜂須賀正勝の一五〇〇と、
黒田孝高自身の二〇〇〇、さらには予備隊から、高山右近の二〇〇〇をも割く事になった。
土壇場での五五〇〇もの兵力の離脱もさることながら、それ以上に官兵衛が離れるということが後に、
秀吉にとって最大の痛手となるのである。しかし、信忠系織田軍の兵数は減る一方ではなかった。
それは五日前、つまり本能寺で明智・徳川軍の掃討を逃れた将兵達が、昨日今日になってようやく
集まってきたもので、中には、丹羽五郎左衛門長秀や織田三七郎信孝、池田勝九郎信輝といった、
部隊長級の武将もおり、生還した兵数も三〇〇〇を下らず、一兵でも多く欲しい今の状況では、
これはありがたいことだった。しかし、兵力差は圧倒的に明知方が有利になり、
実質的には明智方は援軍含めて総勢三四八〇〇に対し、先にも述べたように四国に兵を割かれた分、
織田方は減少し二一五〇〇と、三分の二程度の兵力で戦わざるを得なくなった。
さらに、対長宗我部軍面でも、海を渡り侵攻してくる長宗我部軍一二〇〇〇に対して、
織田方は本隊からさかれた五五〇〇に姫路とその近辺の城の留守居兵を極限まで
削って出した分を足してせいぜい八〇〇〇弱。劣勢は火を見るより明かだったが、
抑えの主将である黒田官兵衛には、攻め寄す長宗我部軍を討ち破り決戦の場に舞い戻る秘策があった。
しかし、この策を使うには大きな犠牲を伴うことを官兵衛は知っていた・・・。
一大決戦の幕が、今、切って落とされた。

目次
十八章 土佐の出来人