三介信雄が変を知ったのは、変の当日つまり六月二日の夕刻であった。
これは大変早い事である。伊勢より京にほど近い安土城の留守居に
変報が届いたのとほぼ同刻である。なぜそのように早く知る事が出来たのか。

信雄旗下の伊勢四人衆の一人に滝川三郎兵衛雄利という者があった。
雄利はその姓の示すとおり滝川一益の縁者である。
もともと雄利は伊勢家の旧領主、北畠晴具の臣、木造具康の子で
木造家の家督を晴具の二男、具政が継いだため僧となっていたが、
信長の伊勢侵攻の際に還俗して織田家の勇将、滝川一益と養子縁組を結んだ。
信長の伊勢侵攻は信長の勝利に終わり、北畠の名跡を信長の二男信雄が継ぐという事になった。
(この時、同じく伊勢の有力豪族神戸氏も信長の三男である
信孝が継いでいる)
雄利はこの信雄体制の中で家老職に就くこととなった。
この雄利が一益同様に忍びを多用しており、全国に諜報網が広がっていた。
それがもちろん京にもあってわずか一日のうちに知る事が出来たのだ。
知らせを聞いた三介信雄は驚きもせず、眉一つ動かすことなく「三河へ行く」と言った。

信雄は三河より隠密に軍勢が入った時点で家康の翻意に
気付いていたのである。
では、何故信雄はそれを信長に報告しなかったのか。
答えは一つ。信雄が信長の死を望んだからである。
その上で予想通りの父の死を知り、即座に三河侵攻を決定した。
父の弔い合戦を置いて、先に三河に軍を向ける理由はなんだったのか。
明智・徳川連合軍は精強であり、正面から当たっては勝率は薄い。
が、家康が二万もの兵を動員している為、手薄になった三河なら
信雄の手勢で充分である。領主の家康は遠方にあり、遠江、駿河からの
援軍が来る線も薄い。家康が帰還するにせよ京と三河の間には織田領の
美濃・尾張や信雄領の伊勢・志摩があり、とれる帰路は大和の山中を抜けて
紀伊に入りそこから海路をとるしかないが
それではそうとうに期を要するだろう。
さらに海路で三河に上陸するにもその手前には志摩と伊勢湾があり、
そこへ九鬼水軍を回せばさらに上陸を遅らせることが可能である。
そしてこの策は、明智・徳川連合軍の抱える最大の弱点、
その名の通り「連合軍」という部分を大いに突くものである。
連合軍というのは片方が崩されれば共倒れは必至。
光秀だけではいずれきたるであろう織田軍との決戦は不利。
となれば家康は光秀をおいて帰還する事もかなわず、
かといって信雄の軍を放っておく事もできず、
軍を分散する以外にないだろう。

なんと信雄は瞬時にこれだけの策を立ててしまったのである。
信雄は実は暗愚などとはほど遠い、それこそ覇王・信長の血を子息の中で
一番色濃く受けていたのである。
さらに信雄は小姓に
「一益と秀隆(川尻秀隆)に使いをやれ。甲斐や信濃など捨てて
さっさと帰国させよ」と告げた。
信雄はここに本性ならびに野心をあらわにしたのだった・・・。

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十章 信雄出陣